○平成14年まで
旧国鉄時代から現在の民営化されたJR東日本の悲願の線です。
事の起こりは旧国鉄が民営化するかしないかの時代の事。東北新幹線建設にあたりその頃の世論と当時の運輸省、運輸族の攻防がありました。
基点を上野駅にするか、東京駅にするかが大問題になっていたのです。
時の東京都知事、国鉄総裁、千代田区、台東区、北区などの区長は上野駅を押していました。
しかし、昭和40年代からの計画が進むなか、国鉄民営化の実現が本格化し民営化になった昭和62年に向けて様々なドラマが生まれたのです。
まず、「東北縦貫線(じゅうかんせん)とは何かの窓」で因縁の線と紹介しましたが、この東北縦貫線は旧国鉄時代に「東北新幹線プラス東北縦貫線」の一体化計画(資料、東北新幹線神田の皆さんへPDF)新幹線で進められました。もちろんその頃は住民も多く住んでおり、この狭い神田の繁華街を高架にし、住民の環境を脅かす計画に、すぐさま神田地区東北新幹線対策委員会が設置され反対運動が起こりました。
そして、地元の反対運動が10年以上続くうち、昭和58年頃あまりに反対運動が強かったので、旧国鉄は「東北縦貫線を廃止するので、新幹線を通して欲しい」との「確認書」(資料、確認書PDF)を当時の対策委員長と交わしました。これが地元で言う「約束を反故にされた確認書」です。
ご存知と思いますが、旧国鉄の赤字は清算事業団に受け継がれました。反対に東京駅発までの東北新幹線の全てのインフラは民営化したJR東日本がそのまま受け継いでいます。
民営化する前に全ての赤字を出したかった、その為に反故にすることがわかっている住民との約束をしてまで、東京駅までの工事をしたかったと言うのが実情でしょう。
その証拠は平成14年、寝耳に水の東北縦貫線の工事再開です。しかも新幹線建設当時にもうすでに東北縦貫線建設が可能な基礎を建築していたと説明されました。民営化しても官の心が残っているのでしょう。一度計画したものはどんな事があっても遂行するとの怨念を感じます